山岸凉子先生の木花咲耶姫🤗🤗🤗
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。
オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。
コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである(天孫降臨を参照)。
🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊
高校生の典子には3歳上の姉がいる。お姉さんの咲耶は子供の頃から優等生で、両親は咲耶ばかり可愛がっているように典子は感じていました。
「典子」という名前も「3歳の咲耶が名づけた」という毎回人前で繰り返される父の自慢話に典子はすっかりひねくれてしまいました。
「地味だけど優秀な姉」と「美人だけど不出来な妹」
姉ばかり愛される家庭で育ち、不良娘になってしまった典子。
夜遊びをしていたときにいやらしいおじさんにからまれてしまいました。
そのとき、家に来たことのある姉の元同級生・飛渡が助けてくれました。
そんな飛渡くんに典子は
「あたしは姉さんとは違って頭悪いから 勉強なんか大嫌い!」
ここでふと典子は飛渡くんに昔話をしました。
典子がもう少し若かったころテストで100点取ったことをお母さんに喜び勇んで報告しました。
それをお母さんも喜んでたまたま帰って来た咲耶にも報告すると咲耶はクスッと笑って
「私の部屋の本棚の全集見ていて覚えたのね、良かったわね」
と一言。
お母さんもお姉ちゃんのおかげねと。
テストは本の題名と作家名を書く、というような内容のものだったのですが、典子はもちろん自分で勉強して結果をだしたので、まるで姉のおかげと言う様な二人の物言いに物凄くがっかりしました。
頑張っても結局、、、そんな気持ちになっていきました。
それを聴いて飛渡くんは考え込みます。
典子はおちゃらけてごめんね〜重いね〜みたいに、流すのですが、、、
典子の名前について話し出します。学生時代典子の家にみんなで遊びにいったときに両親から咲耶が典子の名前をつけたというエピソードをみんなできいたときの。
それを聞いて典子のことを気になっていたと。
何故なら彼の名前「圭」も、死んだ兄の名をつけられた名前だからです。
「お姉さんにつけてもらった名前…それ自体はいいんだ。
それはすばらしい事だよ。すばらしい……だけど そこにきみがいない。
そこには3歳で妹に名前をつけた天才の咲耶さんはいてもきみが…きみの存在が…」
初めて自分のなんだかわからないモヤモヤ、つらさを言葉にしてくれた人に出会い典子は泣き崩れます。
それから典子は飛渡くんに話すようになります。
最後の新幹線ではそんな飛渡くんに向かって心を打ち明けようとするシーンで終わります。
わたしでも木花佐久夜毘売になれますように。
そんな言葉を胸に抱いて。
🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊
この話は姉妹の話ですが、これって細かく見たらよくある話かなって。
お金のある人とない人とか、子育てしてる人とまわりとか、お年寄りと介護する人、とか役割というのかそういうテレビの役柄みたいな
https://ameblo.jp/ses-happy/entry-12350620966.html
ハッピーちゃんのこのお話じゃないけど、自分にあった方法を自分でコツコツ見つけて整えてやっていくと欠けているものってないなあというのか。
先日電車に乗ったとき、学生時代の満員電車を思い出したりして。
その時ベビーカー連れだったのですが、
急に
一番の一番の最初に日本に電車があった頃って多分今ほど女性が働きに出ていなかったのかな?って思いました。
お父さん一人とか。
だから、乗車する人の想定もお父さんたちみたいな
それは学校に通う人も。
時代は変わって、女性も働きにでて、学校にもほとんど男女の差も昔ほどなくみんなが電車に乗って行けるようになった。
そうしたら思ってたより沢山人が乗ることになっちゃって満員電車になっちゃったのかな?って思ったら(勝手に私が思っただけ)
日本は(他の国との比較ではなく、たまたま私が日本にいたからそう思っただけです)社会に出て行くということが昔よりきっと豊かになったんだなあって感じました。
満員電車もある一面は問題なんですが、ステージアップしたというかそのことによって出てきた昔にはなかったことなのかなって思いました。
電車内ベビーカーについても、ベビーカーで外に赤ちゃんと出かけられる素地が社会に出来て来てくれたから出ようと思えるというのか、これまた過渡期なんだろうなって。
はじめに出ようと、してくれた人がいる
ある問題(と捉えられていること)にはセットで、または裏でというのか、きっと、素晴らしい豊かさがあるんじゃないかなあって思いました。
今日抱っこ紐で12キロの娘前抱っこで久しぶりに走ったら息切れとめまいがしました(笑)
昔は後ろに2番目くんおんぶで前にお兄ちゃん抱っこで荷物とかやってたのになあって懐かしくなりました。
でも、カエルの実験で熱湯に入れたら驚いて飛び出すのに水からあたためていくと熱湯になっても気が付かないで茹だっちゃうカエルの話を思い出しました。
一人ひとりがとても豊かな存在で長所は短所、短所は長所、(いいか悪いかの判断は向き合った人独自のもの)なんだろうなって。
ホットのカフェラテを飲みたいなっていうときに私は高速回転させた頭をストンと座らせたい、ひとりでぼっーとしたいという感覚を味わいたいと思っています。
少し甘いものなら味の良し悪しまではいいかなって。
だから家なら立ったまま、誰にも話しかけられずぼっーと出来たらそれでオッケー👌なんです。今は。
でも、なんというかカフェラテは外のカフェで静かに飲まないと自分のほしい空気感が得られないと思っていたらオッケーじゃないと思うんです。
はっきりとこの感じを味わいたいのにイメージだけでやってるとそれをやってるのにいまいち思っていた満足感が得られないみたいなことがいやなので(その不思議さも面白いですが)感覚に任せながら結構詰めます。
まとまりないんですが、カフェラテ飲んでるけど、外の素敵なカフェで飲んでるけど、いまいちしっくりこないあれ、よくみたらお味噌汁だった!そんな体験普段ないし案外面白かった、ミラクル💫なんていうのも私は好きです。
ありがとうございました〜🍒🍒🍒