お姉ちゃんなくなったとき①/閲覧注意
どこに書いたか高校生の頃、私がお夕飯を作って、姉のご飯のお手伝いをしていたんですが、両親が離婚し、私が、3年間やっていたことをやりたくて、やり終えたころ、姉は私の作ったかぼちゃの煮付けの消化が悪かったらしく、風邪をひいて、施設に入りました。
離婚していたので、父が服をもっていったり遠足の付き添いをしたりしていて、時々私も一緒に行かせてもらって散歩したりしてました。
そこで、数年くらしていたのですが、10月のある日、家族で話しているとき、一本の電話がかかってきました。
「◯◯さんが危篤です。」
という電話だったと思います。
急いで、父とかけつけてみると、青い姉がいました。
姉は、私たちの思う日常的に必要な動作ができないのですが、そのとき、
喉に何かがつまり呼吸が出来なくなっていて、そうすると、血中の酸素濃度がさがることで、危険だと反応する、機械が指先から外れて、20分そのままだったそうです。
なんで、気づかなかったのかよくわかりませんでした。
それでも、姉は頑張っていて。(私にはそう思えました)
だけど、数日したころか、病院の方から、この状況が改善する見込みはないから、
どうしたいか考えておいてほしいというようなことをいったらしく、母は、自分たちがこの状況を招いておいて最善を尽くすということではなくそんなことを言ってくるのはおかしいと、泣きながら怒っていました。
本当にそうだから、お母さんにはなにもなにも我慢しないで、感じたままただただ、お姉ちゃんのそばにいてほしいと思いました。
父はずっとお世話になっていたこともあり、先生方と調整をはかろうとしているようにみえました。
じゃぁ自分は何ができるのかって、考えたとき、少しでも改善に向かえないのか、
色々試行錯誤することだと思い、看護師の友人たちに相談したり、学生時代の教科書をくくったりして、精神的に今は揺らぐときじゃないと思ってできることをさがしました。
落ち込んで犯罪に巻き込まれるとかも違うと、徹底して、身の回りにも気をつけました。
そういう意味じゃその頃は姉の病室で、妹がもってきてくれたCDを姉たちと聞いていたときが一番落ち着きました。
あるとき、これはどうなんだろうと思うものを、先生に相談するとき、侵襲性がある的な返しをうけ、思いがけず泣きそうになって喉がつまり声が震えてしまいました。
それをみて、なんというか、先生がまずは落ち着いてというように話され、
それを聞いたわたしはあぁ、こんな風に泣いてしまうような自分では話をすることも、きいてもらうこともできないと反省し泣く事をやめました。
また、その頃、父が話していた話で、皮膚科の先生の話だったかで、その時点では
ある女の子の怪我を綺麗にすることは難しい、だけど、ものすごい勢いで、医学は進化しているから、明日には、この傷の治し方がみつかるかもしれないよみたいな話を聞いて。
お姉ちゃんにも、こうやって生きているってことが精一杯って思う。でも、明日にはなにかみつかるかもしれないからよ。って話していました。
このころ、母は仕事と病室を毎日行き来していました。
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