家事をきちんと」日本人を悩ませまくる呪縛 リンク記事、なぜ夫が全然手伝わない社会になったのか
自分が生活を送る上で、整えておきたい部分というのが、あるのは重々承知の上で。
前提としてそれを優先できない条件、状況があることを見ようとしないで結果ばかりでジャッジしようとすると目の前の色んな豊かなものを取りこぼすんじゃないのかなあとなんとなく思います。
http://toyokeizai.net/articles/amp/201299?display=b&_event=read-body
イメージとしては赤ちゃんのお肌はしっとりふわふわでつるつるで。触れてみると極上の肌触り。
そんな赤ちゃんの方から撫でられたりするのは最高に心地よい感覚です。
でも、赤ちゃんは初めてのひと、ものに対して、様子を見るというのか、また怖くて、またはよくわからなくて泣いてしまうこともあります。
もちろん、自然にいることもあります。
でも、いつしか時がたって、泣くこともなくそばにいるこたがいつしか出来るようになることがあります。
少し意識のある赤ちゃんの方から手を伸ばして触れるということも大丈夫そう?という感じを感じてからいけることもあります。
子供なら言葉を使って色々やり取りすることもあります
そういった細かい細かいコミュニケーションの先にニコニコ子供や赤ちゃんの方から語りかけてくれる豊かさに涙が出そうになることがあります
うんちもおしっこもするし、よだれもたらすし、家も汚くするし、うるさい(笑)
でも最後にはすべてを大きく取り込みながら、ニコニコこちらによってきてくれるこどもたちがたまらなく可愛く感じます。
ジャッジをきれい、きたない
うるさい、うるさくない
言うことを聞く、きかない
そういった二元論で判断していくことは沢山ある日常の中を心地よく過ごしていくための方法として取り入れることにはいいと思います。
でも、人に対してこのジャッジはつまらないなあ、
と私は感じます。
体力やエネルギーが整えられているならば、色々な価値観、感覚をきいてみたい
その中から取り入れらたいものは取り入れる
それだけ。
家事に価値を置くというのは構わないけどそれをその人を判断する材料として、人を非難するのなら、その前提をも吟味する必要があると思います。
また、感情的な思い込みも取り去らって。
そう考えると私は家事も公になっていくんじゃないかなと思います。
別に一人の人に責任を負わせずシェアしていくほうが安全だし、負担も減ってリスク管理になるんじゃないかな〜
ありがとうございました❤